「気」の存在を痛感した時のハナシ

※この記事には人の死にまつわる表現が含まれますので、苦手な方はお控えください。

「気」がある、なんていうと

「そんなもんあるかいな、スピリチュアルに傾倒しすぎやで」

といわれるかもしれませんが、私が警察官をしていた時の経験を少しお話しします。

 

警察官の仕事の一つに、

「独居老人の孤独死の現場臨場」

があります。

死因がハッキリするまでは、一応事件として取り扱い、現場状況の保存をしないといけないからです。

そんなに珍しいものではなく、警察官をしていたらよく取り扱う案件の一つです。

 

その日も

「第一発見はヘルパーさん、自宅に赴いたところ布団の上で亡くなっている状況を発見した模様」

との一報から現場へ向かいました。

建物に到着すると、ヘルパーさんは玄関の前で立っていて、

「布団の中で亡くなっています。先週来た時には元気だったのに…」

と細い声でおっしゃっていました。

手袋や足袋等、証拠保全のための装備を着けて室内へ入り、ヘルパーさんの言う寝室へ向かいました。

確かに畳の上に布団は敷かれている。

でも肝心の亡くなっているはずの住人は見あたらない。

表に出てヘルパーさんに

「いませんよ?」

と告げると、ヘルパーさんは

「布団で亡くなってますよ!見てください!」

と言われ再び室内へ。

 

布団はある。

しかし住人は見当たらない。

枕に顔を近づけると…

「あった!」

失礼な表現ですが、探し物を見つけた時の感覚でした。

生命活動を終えた肉体は「物」になってしまっていたのです。

亡くなっているとはいえ、「人」を探そうと意識していた自分の目は、この

「命を終え、物になってしまった肉体」

を人として認知することができなかったのです。

 

 

この時強烈に

「人は死ぬと物になる」

と感じました。

それと同時に、生きている人間の「気」の存在を信じざるを得なくなってしまいました。

生者がもつエネルギーというものは確かにあると思います。

オーラの色が見えるとか言い始めると途端に胡散臭くなってしまいますが、「気」というものは確かにあって、生きている人間は必ずそれを纏っていると思います。

日本人はその感覚が特に繊細だとも思います。

気を使う、気を配る、気を張る

というように「気」という感じを使う言葉が多いのもその理由の一つです。

「気」は命そのものです。

命は肉体という器に乗っていますから、肉体を磨くことは「命=気」を養うことになる、ということを覚えておいてください。

 

 

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